同じものでも自分で得るより他者から与えられるもののほうが圧倒的に大きい理論/欲求とかの話

こんにちは、ほすしです。

 

タイトルの「僕は同じものでも他者から与えられるもののほうが大きい理論」ですが、これを解説していきます。

 

例えば、身近な話でいくと自分が電車の中で座席を得るという状況。

・座れる状況にいたとする。

その場合は普通に座席に座れる。

・椅子に座れない状況にいたとする

その場合、他者から座席を譲ってもらい座ったとする。

 

この場合、圧倒的に後者の「他者から座席を譲ってもらうこと」のほうが得るものとしては大きいのではないだろうか。

僕は譲ってもらったほうが感謝の気持ちとかがあり、自分にとって得るものとしては大きいと思うのだ。

自分で座席に座るよりも誰かから与えてもらったということの事実が、心を満たすという上で僕はでかいのだと思う。

 

その他にも、自分でバカって思うより他人にバカって言われるほうがダメージがでかいとか。

 

では、次の例だが、これはオナ禁とかエロ禁に関係する話。

何かしかしらエロい状況になったとする。

・他者から与えられる場合

実際の場面で、エロいことに遭遇したり、かわいい女の子と仲良くなれたりする。

・自分から得る場合

スマホとかでエロ画像とか動画とか見る。最悪、自慰をやったり風俗にいく。

 

この2つなんだが、これは圧倒的に前者の方が得られるものが大きいと思う。

なぜなら、前者の状況は自分だけでなく他者と交わりがあるということや、そういうことは決してスマホやPCなんかでは得られないからだ。

風俗に関して他者と交わりがあると思うが、これは大金を払っているし、そしてその心が満たされるのはその瞬間というものだけになる。何より虚しいだけなのである。

 

前者の場合は、例えばかわいい女性と仲良くなれたり、ボディタッチがあったとすれば、それは長期的に心が満たされるようなものだし、何よりその女性が自分を認めてくれてたり、好意を持たれているということだから自信にもつながる。

 

こと女性がらみで、こういうことが他者から与えられるようになる手段がオナ禁とエロ禁なのではないかと思うである。

オナ禁とエロ禁することで、当然性欲は溜まる。

その欲求や心は当然性欲を発散しようと目の前にある状況を変えようと働く。

その段階で、心は自分で発散する道か、他者から与えられる道を行くのか迫られる。

 

そして、そのどちらかを選ぶかで心の満たされ具合が違う結果になる。

・・・と僕は思うのである。

だから、もしエロ禁とオナ禁をしていて、もう我慢できないほど性欲が溜まってるよ!!!なんて状況なら、なおのことエロとオナに耐えるべきなのである。

なぜなら、心がそれだけ目の前の状況を変えようとする力が強くなっているからである。

 

心が世界を作るという話って、自己啓発本とか読んでいるとよく目にするんですが、それは本当なんだと思います。

心とか欲求とかがあるから、それに従い我々は行動するわけですから。

例え、かわいい彼女が欲しいと思っていたとしても、それで自慰行為に走るのであれば、彼女は得られないと思う。

なぜなら、その自慰でエネルギーを失い、行動できなくなっているから。

性欲の力が強くなればなるほど、目の前の状況を変えようと心は動く。

あとはその性欲のエネルギーをどうやって使うかなのだ。

自分の快楽のためだけに使うのか、そのエネルギーを他のことに使い人の役にたとうとするのか。

僕は間違っても、自分のためだけの瞬間的な快楽のためにそのエネルギーを使いたくない。

 

だから、この理論を元に、僕はエロ禁とオナ禁を続けていこうと思います。

 

話は少し戻るが、他者から何を与えられるということの本質は、その他者に自分の何かを認めてもらったということなのだと思う。

先ほどの話でいうと、エロ禁・オナ禁して自分が魅力的な人と認められたから女性がらみのことが起こった。

自分がバカだと認められたから、バカだと言われた。

仕事ができると認められたから、大きい仕事をもらえたりして収入が増えた。

仕事が出来ないと認められたから、クビになり収入とかいろんなものを失った。

などなど。

 

要は、いくら自分で自分のことをどう思うと、他者に認められなければ意味はないということなんですよね。

いくら自分で自分のことをイケメンだかわいいだ言っても、心は少ししか満たされない。しかし、他者からイケメンとかかわいいとか言われることで心はかなり満たされる。何より、より強固な自信につながる。

それは他者から与えられるもののほうが圧倒的に大きいから。

 

当然、与えられる人にはそれだけ魅力があるから当たり前のことなのだが、逆に与えれるのを待つばかりではダメだ。それは何もしないということであり、誰にも認めてえないということだからだ。

まぁ、そんな人は気持ち悪いことこのうえないのだが。

要は「他者から与えられるのを待つ」のではなく、「与えられる存在になる!」ということが重要なのだ!!。

与えられる存在になるというのは、つまり他人の心を満たしやるということだ。

 

自分から何も行動を起こさず、環境に不平不満を言い、そして批判しかしない人間にならないためには、まず自分で行動を起こし、他者から認められる存在にならなければならない。

そのためには、まず僕の人生の基礎、オナ禁・エロ禁をやり抜くのである。

 

今現在オナ禁・エロ禁13日目である。